| 三次人形の歴史 |
| 広島県北部に位置する三次市は、山陰と山陽を結ぶ要衝の地であり、市内には江の川・西城川・馬洗川の三河川が合流し、古くから舟運で栄えた商都である。 三次人形の発祥は、寛永18年(1641)に、三次藩祖浅野長治が、江戸の人形師森喜三郎を三次に連れ帰り、宮ノ峡の地において忠臣孝子の人形を作らせた のが始まりとされる説が伝えられているが、これを裏付ける資料は何も残されていない。現在、明らかにされているのは、宮ノ峡土人形と十日市土人形(現三次 人形)の二つの窯元である。 |
| 三次地方では三月節句を男女ともに祝い、土人形を贈答する風習が江戸末期から昭和初期にかけて盛んであった。旧暦三月三日(四月三日頃)前にはデコ市(雛市)が立ち、男児には天神や武者物、女児には女物の人形を買い求め、初節句を迎える子どもに贈った。 三次の雛飾りは、最上段に天神、下段に武者物や女物の人形を置き、節句を迎える子どもの人形だけでなく、家族の節句人形もすべて出して飾った。 |
![]() | 宮ノ峡土人形(みやのかいつちにんぎょう) 嘉永7年(1854)に石見国から移住してきた瓦職人の大崎忠右衛門が、上里村宮ノ峡(現三次市三次町)に人形窯を築いたといわれている。 初期の人形は京都の伏見土人形や島根の長浜土人形の影響が見られるが、次第に形態や意匠、ステンシルによる彩色など宮ノ峡独自の人形が創り出された。 二代目は忠右衛門の娘キサ、三代目はキサの長男弥三郎、四代目は弥三郎の姉ノブと引き継がれてきたが、大正5年(1916)、ノブの長男儀一の時に60年続いた窯元も廃絶した。 明治17年(1884)頃から十日市で人形製作が始まると人形の背面に「三次宮ノ海人形本元」という刻印を入れて本元であることを主張した。 |
| 十日市土人形(とおかいちつちにんぎょう) 明治17年(1884)頃、宮ノ峡で人形製作に携わっていた丸本儀十郎が、原村岡竹(現三次市十日市南)に人形窯を築いたといわれている。儀十郎は各地の 人形を取り寄せて研究を重ね、また博多から職人を招いて型を製作させるなどして華やかで美しい人形を創り上げた。二代目熊市も京都で学んだ日本画の技法を 生かした優れた人形を作った。 三代目藤一の代には第二次世界大戦中製作を休止したが、昭和31年(1956)、藤一の弟悳平(十九瓶)が藤一の指導のもとで窯元を復活させ、四代目を継承した。この時名称も「三次人形」に改称した。 昭和40年(1965)十九瓶急逝後は、妻昌子が五代目を引き継ぎ、美術大学進学を目指していた次男垚氏も昭和42年(1967)から人形製作の道に入っ た。平成七年昌子の死去によって、垚氏が六代目を継承し、現在妻のみつ子氏、息子の尚志氏とともに製作を続けられている。 | ![]() |
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