日本はきもの博物館設立の経過

丸山 茂助

嘉永6年(1853)〜大正6年(1917)

広 島県福山市松永町は全国の60パーセントを生産する下駄の町です。この松永で、嘉永6年(1853)誕生したのが丸山茂助です。茂助は明治11年 (1878)25歳で下駄屋を開業したといいます。それは昔ながらの手作りの下駄を近在の人々に売る店でした。その後、材料の材木を求めるうち、明治25 年頃、茂助はアブラギに出会います。アブラギは、江戸時代に始まった塩田の塩を積み出した帰りの船に積まれてくる安い材木でしたが、桐に似て白い木肌で軽 い材でした。この安い雑木を使った下駄は安く売ることが出来ました。よく売れるので、それに従って材木の必要量が増えていき、アブラギだけでは足りなくな りました。そこで、材を求めるうち、セン(栓)という木にいきあたり、これが大木だったため、製材を機械化していきます。これが明治39年のことでした。 ここから、松永は雑木を使った機械生産の大衆的な下駄の産地となっていきました。

 

第 二次大戦後の復興で、昭和30年(1955)松永下駄は年産5600万足に達しました。が、それをピークに急激に下降していきます。戦後の生活の変化で、 下駄が履かれなくなったのです。この時、松永では「下駄というはきものは消えてなくなるのではないか」とまで感じられたそうです。産業としても転換をせま られます。

茂助が作った丸山商店でも、3代目の雷蔵、4代目の茂樹の頃、ケミカルサンダル、そしてケミカルシューズへと転換し、社名も株式会社マルヤマとなっていました。下駄製造をやめるにあたって「下駄の記録」を残したいという思いがあり、それが博物館設立にむかっていきました。

茂助が開業した明治11年から100年目の昭和53年(1978)10月10日、松永下駄産業100周年を記念する「日本はきもの博物館」が開設されました。


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